ニッシーブログ
2005.4.8
ふるさとの思い出(明石高年クラブの広報誌に掲載予定の原稿です)
1. もの心ついた幼稚園児のころ、両親と弟と二見の市営住宅に住んでいた。毎日、近所の姉崎外科のお嬢さん(私と同い年だから今はオバサン?こちらもオジさんだから当然のことであるが)と手をつないで山陽電車に乗って幼稚園に通ったことをよく覚えている。
 それでも幼稚園、小学校まで結構遠かったから、しばしば母方の祖父の家、明石駅前・東仲ノ町の「大崎時計店」に泊まった。狭い狭い家で、店舗の2階の六畳一間であったが、祖父が吉田茂首相の話をしてくれたり、明石大空襲の折、明石公園での被爆が原因で亡くなった淡路島出身の祖母の思い出話を聞いたり、とても興味を引かれた。そして夕
方には、近所のパン屋さんや飲食店のお兄さんが遊んでくれたり、お菓子をくれたり。珈琲店・「寺子屋」のマスターは、今でもその時の話などしてくれる。

2. 小学生の頃はよく遊んだ。夏休みは朝から晩まで明石公園でセミ取りに明け暮れたし、(たぶん)剛ノ池でザリガニもよく取った。淡路島の親せきのうちに遊びに行き、海水浴もよくした。父からも母からも「勉強しなさい」と言われた記憶は全くない。おかげで成績は悪く、通知簿は2とか3ばかりだった。祖父からは「『裁判官』になるか『大蔵省』に入れ」と言われ続けたが、その頃の私を見ておそらく祖父は「夢物語」のように感じていたに違いない。(そして、祖父の意に反して通産省に入った。)

3. こんな私が、少しだけ目覚めたのは、一緒に野原を走り回っていた仲のいい友だちの多くが、いつの間にか進学塾に通い「○○中学を受験するつもりだ」という話を聞いてからである。遅ればせながら、私も6年生になって初めて近くの塾に通い始めた。 しかし、目覚めるのが遅かったから、中学受験は間に合わず、仲のいい友だちほとんど有名私立中学に進学した。今思えば私の勉強欲はその時から始まったのだろう。中学ではよく勉強したと思う。そして陸上部でもがんばった。3000mでは市内4位であったし、中学対抗駅伝ではアンカーを務め市内準優勝であった。今でも、明石公園や陸上競技場、野々池を訪れると、その頃の辛かったことや仲間と励まし合ったことを懐かしく思い出す。明石が私を育ててくれたのである。

4. 最近では、夏になると子供たちを明石・八木の海岸や淡路・五色浜などに連れていったりしている。カニやヤドカリを探す子供たちを見ていると、自分の子供の頃を見ているようである。(3人の子供はいずれも娘なんですが)。自然の中で伸び伸びと大きく育ってほしいと思う。「友だちが持っているから」と言って、携帯電話やゲーム機を欲しがるが、買い与えるつもりはない。ゲーム機に夢中になるより、友だちとの時間を大事にして心の優しい大人になってほしいと願っている。

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