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悲しみが続いても、原点は地元に
1.14日夜、地元の様々な団体・グループの忘年会をはしごし、最後は淡路・洲本市の「康酔会」(写真①)。
私の名前を一文字とっての命名だが、元々の名前は「稔(みのり)の会」。この名前が私の女性後援会の名前になったため、変更を余儀なくされたが、メンバーの顔ぶれからして「康酔会」の方がぴったりである(笑)。一番最初の選挙の時に応援してくれた方々を中心に、気の合うメンバーが集まってくれる。地域の後援会も無い頃に、島内を走り回って掲示板に選挙ポスターを貼ってくれた方々である。この会にくれば昔の辛かった頃も思い出すし、まさに私の政治の原点である。毎月のように集まっているようだが、私が出席できるのは年に1~2回。それでも本音で話しができ、時には厳しいことも言ってくれる大切な方々である。
2.15日朝から、明石市大久保北コミュニティーセンター(コミセン)の20周年祝賀会。私から挨拶の中で、福田総理が「つながり力」をキーワードに日本の将来ビジョン、成長戦略を考えるように指示されたことを紹介しつつ、コミセンの様々なサークル活動を通じて、それぞれの方の生きがいや地域の活性化につながっていることに敬意を表した次第である()。
その後、大変お世話になった明石市西大窪の井川善一さんのご葬儀に参列。入院されたとは聞いていたが、こんなに早く逝かれるとは夢にも思わず、「国会が終わってから、ゆっくりお見舞いに行こう」と考えていた気持ちが悔やまれてならない。奥様とお二人でいつも激励頂いた。奥様の涙を見て涙が止まらなかった。
3.自衛隊阪神基地の市民交流会、自民党青年部近畿大会で挨拶をして、新幹線に飛び乗り浜松へ。青年部大会では、わざわざ、東京から同期の井上信治青年局長が来てくれているだけに、ゆっくり出席できなかった事が残念だが、夕方には淡路での国政報告会を控えており、この新幹線に乗らないと大変なことになってしまう。
4.浜松では、急逝されたスズキの 小野浩孝 専務の弔問である。小野さんは、通産省の6年先輩で、在職中もご指導頂いたし、スズキの鈴木修会長の娘婿となられてのスズキに入社後も、落選中の私を物心両面で応援してくれた。52歳の死は早すぎる。お通夜の始まる前に訪問させて頂いたが、鈴木修会長が悲しみをぬぐいさるように、小野さんとのやり取りを話してくれた。きっと近い将来社長にしようと思っていたに違いない。心からご冥福をお祈り申し上げる。
5.悲しい出来事が続いたが、気を取り直して浜松から、再び新幹線で新神戸に向かう。夜7時から、森喜朗元総理をゲストに淡路市での国政報告会である()。南あわじ市、明石市、洲本市と行ってきた毎年恒例の国政報告会もいよいよ最後で、合計3000人もの方々に私の話を聞いて頂いたのである。ありがたい限りである。
思い起こせば、1999年に通産省を辞めて、地元に戻って以来8年であるが、最初の4年は浪人、国会議員になって丸4年、5年目を迎えているわけである。地元の皆さんのお支えがあって、東京(国会)でも安心して活動できるのであり、当選2期5年目にして、内閣の重要政策である、「テロ対策新法」について、自民党を代表して衆院本会議での賛成討論をする機会を持てたことは、本当に光栄であるし、これもすべて地元の皆さんのご支援のおかげである。当面は、国土交通部会長代理、水産副部会長、農水産貿易調査会事務局次長として、厳しい経済環境にある地元の皆さんの要望にもしっかり応えていきたい。
私の名前を一文字とっての命名だが、元々の名前は「稔(みのり)の会」。この名前が私の女性後援会の名前になったため、変更を余儀なくされたが、メンバーの顔ぶれからして「康酔会」の方がぴったりである(笑)。一番最初の選挙の時に応援してくれた方々を中心に、気の合うメンバーが集まってくれる。地域の後援会も無い頃に、島内を走り回って掲示板に選挙ポスターを貼ってくれた方々である。この会にくれば昔の辛かった頃も思い出すし、まさに私の政治の原点である。毎月のように集まっているようだが、私が出席できるのは年に1~2回。それでも本音で話しができ、時には厳しいことも言ってくれる大切な方々である。
2.15日朝から、明石市大久保北コミュニティーセンター(コミセン)の20周年祝賀会。私から挨拶の中で、福田総理が「つながり力」をキーワードに日本の将来ビジョン、成長戦略を考えるように指示されたことを紹介しつつ、コミセンの様々なサークル活動を通じて、それぞれの方の生きがいや地域の活性化につながっていることに敬意を表した次第である()。
その後、大変お世話になった明石市西大窪の井川善一さんのご葬儀に参列。入院されたとは聞いていたが、こんなに早く逝かれるとは夢にも思わず、「国会が終わってから、ゆっくりお見舞いに行こう」と考えていた気持ちが悔やまれてならない。奥様とお二人でいつも激励頂いた。奥様の涙を見て涙が止まらなかった。
3.自衛隊阪神基地の市民交流会、自民党青年部近畿大会で挨拶をして、新幹線に飛び乗り浜松へ。青年部大会では、わざわざ、東京から同期の井上信治青年局長が来てくれているだけに、ゆっくり出席できなかった事が残念だが、夕方には淡路での国政報告会を控えており、この新幹線に乗らないと大変なことになってしまう。
4.浜松では、急逝されたスズキの 小野浩孝 専務の弔問である。小野さんは、通産省の6年先輩で、在職中もご指導頂いたし、スズキの鈴木修会長の娘婿となられてのスズキに入社後も、落選中の私を物心両面で応援してくれた。52歳の死は早すぎる。お通夜の始まる前に訪問させて頂いたが、鈴木修会長が悲しみをぬぐいさるように、小野さんとのやり取りを話してくれた。きっと近い将来社長にしようと思っていたに違いない。心からご冥福をお祈り申し上げる。
5.悲しい出来事が続いたが、気を取り直して浜松から、再び新幹線で新神戸に向かう。夜7時から、森喜朗元総理をゲストに淡路市での国政報告会である()。南あわじ市、明石市、洲本市と行ってきた毎年恒例の国政報告会もいよいよ最後で、合計3000人もの方々に私の話を聞いて頂いたのである。ありがたい限りである。
思い起こせば、1999年に通産省を辞めて、地元に戻って以来8年であるが、最初の4年は浪人、国会議員になって丸4年、5年目を迎えているわけである。地元の皆さんのお支えがあって、東京(国会)でも安心して活動できるのであり、当選2期5年目にして、内閣の重要政策である、「テロ対策新法」について、自民党を代表して衆院本会議での賛成討論をする機会を持てたことは、本当に光栄であるし、これもすべて地元の皆さんのご支援のおかげである。当面は、国土交通部会長代理、水産副部会長、農水産貿易調査会事務局次長として、厳しい経済環境にある地元の皆さんの要望にもしっかり応えていきたい。